カテゴリー別アーカイブ: 【復刻】禁煙への道

01. たばこをやめました

「たばこをやめました」というコラムのアクセスが多いのでブログに復刻しました。
以下がその目次になります。

禁煙してみました
(2003年7月)

 
禁煙しようと思っていましたが、ひょんなことから本当にやってみました

  私の主張「たばこ」
  へそ曲がりの禁煙
 禁煙日記
  (プレ禁煙)なぜか、節煙をはじめた
  (禁煙第一週)突然、禁煙になった
  (禁煙第二週)悶絶しながらも続いている
  (禁煙第三週)口が荒れてきた
  国家と中毒
  あれから1年以上経ちました

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

02. 嗜好品

私の主張「たばこ」 – 嗜好品

たばこが健康によくないことは充分知っている
たばこを吸っていると肺癌になることも知っている
でも、自分は肺癌にはならないと思っている

自分の嗜好には何人たりとも干渉されたくない

たばこを吸うことでリラックスする
たばこを吸うことで間が持てる
たばこを吸うことは文化(カルチャー)である
たばこには、いろいろな人の面影があり郷愁がある
「嗜好品」とは

(1)飲食物であること
(2)栄養摂取が目的ではないこと
(3)香味や刺激を得るためのものであること
(4)快感が得られること
を要素とするものです。
なおかつ、
(1)人によって好み(好き嫌い)があって一律に論じられないもの
(2)良さがわかるには一定の修養が必要なもの
(3)用いる際には品位や節度が求められるもの
とあります。
つまり、「栄養摂取を目的としないで、心の安らぎなどを得るために、嗜み好むこと」で、実際に、お酒、コーヒー、たばこなどが例としてあげられています。

JTのホームページより引用
http://www.jti.co.jp/JTI/tobacco/kigen/index2.html

さすがJTである。そつなくうまいことを言います。
そつなくうまいこと言いすぎである。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

03. 中毒への道

私の主張「たばこ」 – 中毒への道

 最初の一本は中学生だと思う。
普通に咳き込み悪いイメージのみが残った。
中学時代はこの一本だけではなかったかと思う。

 高校生のときに・・・
(ブログ化にあたり公序良俗に配慮し編集しました)

だから、今の時代、昼間公衆の面前で普通にたばこを吸う傍若無人な高校生には腹が立つ。
(勝手な物言いといわれようと、私はそう思う)

 大学生になると周辺の環境から喫煙が日常化した。
学内の灰皿、禁煙の張り紙、先輩・友人の喫煙など、じつにすーっと喫煙生活に入っていった。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

04. 習慣の恐ろしさ

私の主張「たばこ」 – 習慣の恐ろしさ

たばこには2つの習慣性がある。
第一に、ニコチン依存症の問題であり薬物中毒と同じである。もう一つは、たばこに火をつけ口に運ぶという行為の習慣である。この習慣は、毎日欠かさず何十年も続けてきたものであるため、これをやめることも大変である。

20年間1日20本を欠かさずたばこに火をつけてきた場合

   20本×365日×20年=146,000回

の動作を繰り返してきたことになる。私の人生でこれほど長くかつ欠かさず続けてきたものはない。

 私にはこの習慣を断ち切るほうが大変である。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

05. 禁煙

私の主張「たばこ」 – 禁煙

 節煙をしていく中で禁煙できたらいいなということで、節煙に挑戦したことは何度かある。禁煙パイポで一定時間を過ごし、ご褒美に一服って具合である。節煙は、その効果がわからないことから1~2週間で止めてしまう 。

節煙ですらこれである。
禁煙なんてしたことはない。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

06. 世間の目

私の主張「たばこ」 – 世間の目

 公衆の場では、分煙は当然だと思う。これは、私と社会のコンセンサスが一致している。

  公衆の場では、どんどん嫌煙されていることに負い目を感じ、時代の変化に戸惑っている。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

07. 第一伏線 – 値上げ

へそ曲がりの禁煙 – 第一伏線 – 値上げ

 何日か前からたばこの自動販売機に「7月1日から値上げする」旨の「警告」が出ていた。20年もたばこを吸っているとたばこの値上げは何度か経験している。毎回苦々しい思いをしながらその日を迎えていたが、値上げのことよりはたばこの快楽のほうが勝っていたのである。

 でも、今回は違った。増税の過程がかつてないほど安易だったことから、喫煙者が小馬鹿にされた感じがあった。それは発泡酒の増税にも垣間見えた(発泡酒はデキレースの増税凍結の猿芝居があったが)。

「いやなら止めれば・・・」とうそぶく財務省の声が聞こえてくるようだ。

 小市民である私はこれについて声を上げることはなく、この怒りをどうすべきかと思案しながらたばこを吸うのが関の山である。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

08. 第二伏線 - 社会悪

へそ曲がりの禁煙 – 第二伏線 - 社会悪

 喫煙に対する社会的コンセンサスが速いスピードで変わっているとも感じていた。

  私が吸い始めたころは、一応禁煙スペースという空間が申し訳なさそうに存在してはいたが、実態はどこでも喫煙はOKだった。それは喫煙人口にも表れていた。社会に出て働き始めても、職場の机には灰皿があり、会議室や応接室も当然喫煙スペースであった。

  しかし、徐々に変わってきた。 まずは、外資系のオフィスでは分煙がはじまっり、職場の机から灰皿が消え、喫煙ルームが誕生した。喫煙時には喫煙室というたばこを吸うためのオリにいれらるようであまり気分のいいものではなかったが、喫煙室がみるみる黄色くなっていく様をみて屋内では必要であることを痛感していった。

  やがて、日本の企業でも若い会社から順に分煙が始まり、このころには公共の場でもあたりまえになった。しかし、がんとして姿勢を変えない旧来の老舗企業もあった。お茶くみがある企業である。変えられない企業体質ってものがあることを感じ取った。(どちらかというと変化に気づかない・・・)

  分煙もいろいろと進化していくなかで、気がつくと分煙が禁煙になっていた。 灰皿があるところが喫煙場所であったが、灰皿があるところから先は禁煙になった。つまり、ビルがまるごと禁煙になり吸うなら外でという分煙である。これも結構なスピードで普及していった。新しいビルに入る企業ではほとんどがそうなった。

 一方で公共機関や医療機関などは依然ビル内での分煙であった。民間のスペースがどんどん分煙から禁煙になっていく中で、公共機関や医療機関の施設でも禁煙になっていった。これらの施設はいろいろな人(常識の枠ではかれないような人を含む)が出入りするので難しいことは理解できるが、決断の問題だと感じた。

  そして今年、屋外禁煙がはじまった。駅での禁煙である。

  かつて、屋外での禁煙は火気とゴミの問題であり、喫煙家も十分理解できた。室内の禁煙は、黄色い壁を見れば人と設備に対する配慮であると喫煙家も理解できた。駅での禁煙は、法に基づく屋外副流煙の問題である。

 屋外での副流煙による禁煙を求められたのと同じころ、法律によりたばこのパッケージに「肺癌」や「脳卒中」の警告を義務付けられることを知った。

 社会は、喫煙を社会悪として排除するために強い意志を持ったことを感じた。

一方で、年齢から来る体の変化にもゆっくりじっくりと気づいていた。

これらのことが伏線としてあった。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

09. ベーシックな伏線 - 生活環境

へそ曲がりの禁煙 – ベーシックな伏線 - 生活環境

 人生80年だと思っている。今、人生の折り返し点に来ていて、厄年がうんぬんされている。

自分のからだに起きている「ゆっくりとした変化」を認めざるを得ない。喫煙と健康と年齢についても考えることがある。

 家族は、明確にたばこを嫌悪している。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

10. 禁煙日記 – なぜか、節煙をはじめた

(プレ禁煙)なぜか、節煙をはじめた

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>


禁煙日誌

日付 曜日 日数 本数 日誌
6/20 -6 5 なぜか、この日から本数を減らそうと思った。節煙をすることでいずれ禁煙につなげたいというぐらいの気持ちである。吸いたいと思ったときには手元にあったガムを口に放り込んだ。時計と睨めっこである。さっき吸ったのは1時だから3時まではガマンしようという感じである。その間は口の中にガムを放り込んで気を紛らわした。
我慢した後の一服は至福の一服である。
我慢比べとごほうびの一服である。
まあ、お遊びである。結果として節煙にはなった。

タバコに比べればガムは安いものであるので惜しみなく噛んだ。ガムの味とか触感など楽しむことはしない。口の中に入れておきたいか出したいか、噛み疲れたかどうか、飽きたかどうか、が基準になる。

6/21 -5 3 ルールは昨日と同じとして今日も挑戦しようと思った。挑戦するにあたり朝一番の一本に火をつけた。実にうまい。朝一のうまい一本を吸いながら節煙のやる気が出てきたので今日は一気に朝・昼・晩の3本にしてみた。仕事や場所の関係で半日ぐらい吸えない事はたまにあることなので、やればできると思っていた。
昼がくるのが待ち遠しかった。昼の一本は迷わず昼食後の一本にした。食後であることと数時間ではあるが禁煙したことの達成感でそれはそれはおいしい一服であった。
さて、夜までガマンしようと思うと考えたが夜とはいつだろう。
仕事が終わったとき?

夕食が終わったとき?
風呂から出たとき?
寝る前?
悶々としながら吸うタイミングを模索して、結局吸ったのは仕事も夕食も風呂も終わって寝るにはちと早いという絶妙のタイミングであった。
なにが絶妙であるか。吸うことを伸ばすだけ伸ばしてニコチン枯渇の限界状態になったときにうまい一服をこころゆくまでゆーーーっくりと吸ったのである。吸った快楽を思う存分堪能するだけでなく、その余韻も思う存分堪能できる絶妙なタイミングである。
今日一日、待ち遠しいと思いながらガムを噛んで自虐的なゲームを楽しむ自分がいた。

気負いは全くない。

6/22 -4 3 私は、朝は食事をとらない。健康によくないと家族も医者もみんないう。私も理屈は理解できるが、ずっとこれを続けてきたので自分の体からは朝食抜きが悪いことであるとは思わない。毎度の独善的私感である。
こんな状態で、朝起きてからすぐに一服。
これがうまい。
っで、これに目をつけた。
朝起きて2時間我慢しようと・・・。

これはきつかった。
この2時間の間でこれがゲームではなくなったことに気がついた。試練・挑戦・葛藤・・・という漢字が頭の中に並んでいた。時計の針が進むのが本当に遅いと感じた。
もちろんガムを噛んだが落ち着かず、ちょっと濃い目のコーヒーを何杯か飲んだことでしのげたように思う。
昼までの時間はその分短くなり、ちょっと落ち着いた。夜は昨日と同じようなタイミングで一服した。

6/23 -3 4 せっかくだから、スーパーへ行って金に糸目をつけずに効果がありそうなものは買ってみることにした。ガム、アメ、スルメ、コンブ、サラミなどいろいろと買ったが、金に糸目をつけずと気負うほどのことではなかった。

普段、私は自分のためにはお菓子を買わない。そもそも欲しいとは思わないのである。
だから、欲しいものではなく効果がありそうなものという基準で買ったつもりである。
ガムは甘くないキシリトール入りのものでこれは効果があることは実証済みである。アメもできるかぎり甘くないものをいくつか選んだつもりだが、アメをなめた後に口の中に甘みが残る感じが嫌で私には合わない。コンブ、サラミなどのおつまみの分類に入るものは、ただただおいしく頂いただけでちょっと違うなっという感じである。唯一あたりめは、その硬さから結構いけるなっと感じたが、いかんせん匂いが強烈なので使える場所が限定される。
朝我慢の2時間。意識せずに迎える昼。待ち遠しい夜。
ここまでは、昨日と同じであった。今日もやったと思いながら机に向かっていると無性にもう一本吸いたくなった。本当に強烈に吸いたくなった。今日買ったお菓子の山を目の前にするとむしろ一層強烈に吸いたくなった。
っで寝る前にもう一本吸ってしまった。

このとき相当葛藤した。この葛藤が中毒だと思った。

6/24 -2 2 昨日は予定より1本多いので、今日は1本余分に減らすことにした。朝の一本に至る強烈なガマンがあるため、昼の一本は乗り越えられると思った。
昼飯を食べた後すぐにガムを放り込んだ。ガムを放り込んでは捨てるという動作を延々繰り返した感じである。そうしているうちに夜を迎えた。そして、ご褒美の一本をゆっくりと吸った。
6/25 -1 2 せっかく1日2本に減らすことができたので、今日も2本とする。同じように昼の一服を止め朝と夜だけにした。
朝起床後2時間の我慢、日中の我慢、終始タバコが吸えるときのことを考えた。昨日はそれほど感じなかったが今日は終始たばこのことを考えていた。中毒だと思った。体調・気分・環境とたばこの関係を感じた。

私は間違いなくたばこ中毒であるが、日によって節煙の苦痛で七転八倒する日と特に何も感じない日があり、その隔たりは相当大きい。今日はどんな日かはその日を迎えてみないとわからない。
それは毎日だれもが感じる「今日の調子」というもので、たばことは関係ない。しかし、たばこは「今日の調子」と密接に関係がある、といまさらながらに感じた。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>