12. 禁煙日記 – 悶絶しながらも続いている

(禁煙第二週)悶絶しながらも続いている

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>


禁煙日誌

日付 曜日 日数 本数 日誌
7/3 8 0

おふくろと夕方電話で話をしたときに禁煙していることを話した。妻には早い段階で話をしたが、それ以外の人に話をしたのは2人目である。

私は「自分にできることしか人に言わない」性格である。「不言実行」は、私には無理である。これは能力と意志の問題である。しかし、男として「有言実行」ぐらいは何とかしたい。言ったことは必ずやり遂げるようになりたい。しかし、私の人生ではこれもなかなか難しかった。結局、「有言実行」になるためには、「自分にできることしか人に言わない」ということになってしまった。あるいは臆病なのかもしれない。

っで、おふくろに言ったということは、自分の中で「できる」という自信があることの表れである。もちろん、いまだに一日に何回も「吸いたい病」が襲ってくるが、撃退する自信ができている。以前は戦わずして逃げている感じがしたが、今は口に何かを放り込んで戦いを挑み勝負している。もちろん勝負は全勝である。

7/4 9 0

久しぶりに夢を見た。なんと喫煙の夢である。この年になると夢の詳細や前後関係は覚えていないが、記憶にあるのは以下のシーンである。

たばこに火をつけ快楽の一服を楽しんでいる自分がいる。半分ほど吸ったところで、禁煙を忘れていて不注意にも吸ってしまっていたことに気づく。あわててすぐに消すが吸った事実に苛まれ、思いっきり苦悩する。

夢の喫煙シーンはこれしか覚えていないが、不注意とはいえ半分を吸ってしまった自分を大いに責めるのであるが、今考えるとその攻めっぷりが尋常ではない。せっかくの禁煙をたった一度のミスで振り出しに戻すことに怒りを感じているのである。裏を返せば、禁煙期間中の苦痛をもう一度繰り返すことの苦痛(恐怖)を感じているのだろう。

禁煙をしていることをおふくろに言ったこと(自信)と禁煙することの苦痛(不安)が、自分の気づかない深層心理の中で葛藤しているんだと思った。

7/5 10 0

夜、家族とともに焼肉屋で食事をした。最近無性に焼肉を食べたいと思っていたので外で買い物に出たついでに行った。行列のできる店だが、夕方だったので混んでおらずすぐに席に案内され、メニューを見て、そして恐怖を感じた。

「焼肉とビールとたばこ」である。このゴールデントライアングルを外の焼肉屋で耐えられるかである。禁煙してから、外の酒場に行くことをかなり強引に避けてきた。「酒とたばこ」の関係を断ち切ること、禁煙に対する他人の恣意的な行動、など今の自分にはとても耐えられないと思ったからである。

私の性格からして、酒を飲んだ勢いで「今日だけ!一本くれる」と友人に懇願するのは目に見えている。今の私の禁煙は、酒の勢いの前には敢え無く敗退するだろう。

焼肉を食べたいがために「焼肉とビールとたばこ」を忘れて焼肉店に入ってしまった。さすが人気の焼肉店である。ビールと焼肉が次々と運ばれていく。テーブルからは焼肉の煙が上がっている。煙の向こうにはビール片手に焼肉とたばこで談笑するおっさん達がいる。正直「ビールも焼肉もたばこもみんなうまいんだろうな~」と思った。

しかし、結果は「特に苦はなく」である。現段階では「焼肉とビールとたばこ」がフルコースでうまいんだろうが、「焼肉とビール」でも十分堪能できるのである。ただし、たばこに対するガマンは少なからず必要であった。

7/6 11 0

やはり、日曜日は手持ち無沙汰である。とにかく何かをし、何かを考えることである。

先週の教訓から学んだことは、
何をするかはあまり関係ない。大事なのは、それを外ですることである。それから、座らないことである。座るというのは一服を意味する。だから、外で動き続ければよい。
ということである。これで今日の昼間は特に苦もなく凌ぐことができた。

さて、問題は夜である。上記の教訓は夜には当てはまらない。っで、結局どうしたかというとダメを承知で食べたのである。テレビを見ながら、本を読みながら、間食とも夜食ともつかないようなものをだらだらと食べた。いい方法だとは思わないが間が持てるので、苦渋の選択をした。そして、いつもより早めに寝た。

7/7 12 0

医学的根拠は何もないが、ニコチン中毒の症状抜けたように思う。しかし、たばこを口に運ぶ習慣からの呪縛はまだぬけられない。今私を襲うのは、「吸いたい病」ではなく「口寂しい病」である。

もはや体はニコチン依存症ではないと思うが、頭がニコチン回顧症になっている。つまり、人が吸っているのを見るとたなこを吸うことの快楽が記憶としてよみがえるのである。

人がたばこをすーっと吸い込むときに「ああ、あの感じを・・・」となり、すーっと吐いていると「あの瞬間の快楽が・・・」と思うのである。

「あの快楽を、あの瞬間を、もういちど味わってみようかな」
「これだけ耐え抜いてきたんだから、一本だけなら大丈夫だろう」

などと考えるのである。まさにテレビで見るヤク中患者の転落の瞬間である。

リハビリとは、体の改善ではなく、頭の改善である。そして、心の問題であることを実感した。

7/8 13 0

灰皿がなくなって一週間ぐらいになる。実は、禁煙と同時に灰皿を片付けるべきだったのかもしれないが、なぜかしばらく机の上に置いておいた。禁煙開始後数日たってから灰皿を見えないところに片付けた。今から考えると、禁煙で悶絶している自分には過酷であったと思われるが、なぜかそうしていた。この行動の意味が今日わかった。

灰皿は、私にとっては大事な「もの」であったのだ。語彙が貧困な私が恥を忍んで敢えて使うならば「必須アイテム」であったのである。

ちょっとしたゴミはゴミ箱を使わず、近くにある灰皿を使った。私が灰皿を近くに置くのか、灰皿の近くに私が座るのか、灰皿は常に私の手の届く範囲にあった。

私の灰皿は工芸品でも洗練されたデザインでもなく、じつにありふれたガラスの灰皿であるが、机の最もいい場所に常に大きなスペースで鎮座ましましていた。今日までまったく意識していなかったが、私の灰皿は私の歴史の中に静かに居続けて、私にとっては大事な「もの」であったのだ。

いつもの癖でちょっとしたゴミを手を伸ばして灰皿へ捨てようとすると、そこに灰皿はなく、意外と大きな空きスペースが身近な一等地にあるのである。まさにぽっかりと空いている感じである。ぽっかりと空いているのが空間であるとともに心の何かであると気づいたとき、灰皿が大事な「もの」であったことに気づいたのである。

人によってはそれはライターであるかもしれないが、私には灰皿であった。たばこは文化であると思っているが、この思いがより一層増した瞬間であった。

7/9 14 0

これで、禁煙14日となった。自分の中でもHPで公開しても大丈夫と感じ始めたので、この日にアップロードする。

将来、禁煙に失敗したとしてもこの段階までは禁煙にかなりの自信があったことを記録しておきたかった。

将来、禁煙に失敗したら、それはニコチン中毒に負けたというよりは心の葛藤に負けてしまったんだと思う。

<旧ホームページより転載 2003年7月綴>

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